日本文明を環境から解き明かす

江戸湾、東京湾の謎 利根川の奇跡(2)

  • 印刷
  • 共有

東京湾の入口の浦賀水道は房総半島と三浦半島に挟まれていて、極端に狭くなっている。一般に閉鎖性水域は水の入れ替えが少なく、海底にヘドロが堆積されると貧酸素になり汚濁は螺旋を描いて悪化していく。近代になり東京湾はコンクリートで固められ、東京湾は汚染される一方であった。このような状況だった東京湾が、なぜ、江戸前の新鮮な魚介類が獲れるようになったのか? この東京湾の復活の謎には、隠された答えがある。この隠された答えは、本当に隠れていた。関東平野の地下に隠れていた。その答えを知るには400年前の江戸初期に戻らなければならない。

度し難い不毛の関東

1600年、徳川家康は関ケ原の戦いで西軍に勝った。その家康は1603年に征夷大将軍の称号を受けると、さっさと江戸に帰った。家康にはやるべきことがあった。それは、利根川の流れを銚子へ向ける利根川東遷工事であった。
当時、江戸の東の関東平野には、広大な湿地帯が広がっていた。縄文前期、温暖化で海面は数m上昇していた。その数mの海面上昇によって関東地方は海の下になっていた。家康が江戸に入った時期には、温暖化は終わり、海面は下がり、海は遠くに後退していた。
江戸時代、群馬の山々から流れる利根川と渡良瀬川は、関東平野に出ると流路を南に変え江戸湾に流れ込んでいた。それらの河川群は山々から大量の土砂を運んできた。かつて海だった一帯で土砂が堆積されて、関東は巨大な湿地帯となっていた。(図-1)は、家康が江戸入りした当時の関東の河川群と湿地帯である。
関東で雨が降れば、河川はこの大湿地帯で溢れ、その水は何日間も引かなかった。また、高潮ともなれば、江戸湾の塩水が関東の奥深くまで遡っていた。そのため、この関東はアシ・ヨシしか生えない不毛の地であった。
江戸に帰還した家康は、利根川東遷工事の再開を指示した。

続きは有料会員登録後にお読みいただけます。

  • オンラインでは実務に直結する有益なオリジナル記事を掲載
  • 登録月(購入日~月末)は無料サービス
  • 環境設備の導入・営業に役立つ「補助金情報検索システム」も利用可能
  • 本誌「環境ビジネス」の電子ブックも読み放題
月額
1,300
年額
15,600

関連記事